命の環

農業とは何でしょうか?

ただ、作物を作るだけということではないと思います。
完璧に整えられた溶液中に計算された肥料成分を満たし、エアコンで適度な風や温度を満たし、LEDなどで光環境も整えて、と限りなく条件を整えるなどの研究によっても、おいしく、安全な(一般的な、安全安心)作物ができると注目されて、取り組みが広がっています。しかし、こういう単なる物質の循環として農業をとらえて良いのでしょうか。農業は、命の循環であるとわたしたちは考えています。「畑」と聞いた時、手つかずの大地や原生林などの誰もが認める「自然」にくらべたら「自然」というイメージではない場所かもしれません。

畑は人が作物を栽培するという不自然で人工的な状態にもかかわらず、自然を抜きにはできない、続かない場所です。植物→土壌(無数の微生物、病原菌もふくまれます)→食べる人の命がつながっていると考えると、周辺には様々な草花、木々、たくさんの鳥たち、魚たち、昆虫や両生類などなど、ありとあらゆる命が複雑に関係しあい存在しています。
最近クローズアップされている、生物多様性なしでは成り立たないのです。

私たちは、鳥のさえずりを聞く、花の香を嗅ぐなど、日々、山や都会の街路樹などを含めて様々な場所で出会う四季折々の多様な生き物の姿を美しいと感じます。
畑では、「ヒヨドリ」のように野菜を食べたりする鳥もいます。「いのしし」や「鹿」なども作物に被害を加えます。例えば、「ヒヨドリ」がいなくなれば、農民は万歳なのでしょうか。「ヒヨドリ」や「いのしし」や「鹿」がいなくなってもいいのでしょうか。作物を食べる虫がいなくなったらいいのでしょうか。人間にとって不都合な要素を遮断すれば管理しやすいように見えます。

しかし、それらは、人間だけが生き延びればいい発想です。わたしたちが、命の循環の中にいるということに気づくなら、「虫」や「いのしし」などがまったくいなくなれば、自分たちに影響してくるとわかります。将来、人間の技術が相当進歩するとしても、命の循環の輪の一つである人間が「命の循環」そのものを構築できるとは思えません。命は、替えがきかない重要なものだと考えています。

「わたしたちの身体は毎日いただく食べ物が形を変えたもの」という言葉があります。
どんなに高層ビルが建っている都市であっても、「命」と「命」が繋がっています。例えば、「食べ物」つまりお米や野菜や果物などを通して毎日つながっています。わたしたちの暮らし方は、こどもたちの未来にどんな影響を与えるのだろうか、と、考え取り組むことは自然な思いではないでしょうか。そして、暮らしを通して考えるということは、身近で考えやすく、取り組みやすい方法ではないでしょうか。人間はそのように道を歩いてきたように思います。親が子の幸せを願い、自然の中で育まれながら、未来を願ってきたはずです。

「こどもたちと手作りの未来を・美しい大地と空をこどもたちに」

ずっと、伊賀有機農産は身近な食べ物を通して呼びかけ続けています。

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