前史
| 1980年 | 前代表の松井が、伊賀の地に就農。 NPO法人「使い捨て時代を考える会」を母体とした食材共同購入組織、安全農産供給センターの直営農場専従スタッフとしての就農であった。 |
| 1981年 | 自然農法の草分け的存在であった久門太郎兵衛氏が、大阪から三重に移住し、伊賀の地に「天地農場」を拓く。 伊賀市の青蓮寺開畑地は、戦後に農地開発された500haの畑灌完備の農地でありながら荒廃地が多く、これからの新規就農者が農業を始めるのに適地であると見定め、ここに研修道場を拓いた。 松井も、天地農場門下生として研修し、独立。のちの伊賀有機農産供給センターの礎となった。 |
草創期
| 1984年 | 3軒の農家で「伊賀有機農産供給センター」(任意団体)を設立。 「くらしの変革の内から安全な食べ物を」「子供たちと手作りの未来を」を旗印に、私達が効率や便利さを求める内で手放していった人との継がり、くらしの手工や仕事の仕方を取り戻そうと、そしてもっと身近に生きてゆく上で大切なものを持っていたいと願い、人が生きるに最も重要な「食べ物」を通してそれがより鮮明に見え、関係を創りだせるのではないかとの思いを込めて。 今でいう地産地消の先駆けとして、地元住民への戸配をはじめる。 |
| 1986年 | チェルノブイリ原発事故を受け、原発反対運動に参加。 我々の土台である大地が汚染されていく危機感から。 |
| 1988年 | 三重県芦浜の漁師・坂口氏の干魚の取り扱いを始める。 野山と海は継がっている。多くの人との継がりの中での出会いであった。 このころから、ニワトリのさばき方教室、サカナのさばき方教室を実施。 同時に、野山と海の汚染を食い止めるため、芦浜原発反対闘争の支援を開始。 |
| 1989年 | 日本の食の大元、コメの供給開始。「農業教室」と名付ける。 手植え、手取り除草、手刈り、稲架干しにこだわり、苦労多かる稲作りを始める。 |
| 1991年 | 食用油(菜種・ゴマ)の生産者を招き、地元で勉強会を開く。 |
発展期
| 1992年 | 大阪東部生協への出荷を開始。のち、関西2府1県にひろがる。 新しい仲間を迎えるにあたり、2人の方の御尽力で新たな受け手との関係を築いた。 自らの手で戸配する体制から、より多くの家庭に野菜を届ける体制へと大きく変化。少量多品目から、中量中品目という今のスタイルを確立。食卓を潤せるだけのとりどりの旬の野菜を作る一方、より多くの方に野菜とメッセージを届けるため、機械化や効率の追求も必要となる。 |
| 1995年 | 三重コープ名張店前で週1回、青空市を開始。 夕方5時まで立ち続けるも、苦しい展開がつづき…。 |
| 1999年 | 地元で、味噌づくり教室をひらく。 くらしを身近なところに、手工を自らの手に、との思いから。以後、こうじ作りも始まり、手前みその奥深まることとなる。 |
そして次の世代へ・・・
| 2004年 | 現代表の木下夫妻が、いわん農場での研修を経て、結婚。独立農家に。 後継者を育てる体制が整い始める。 |
| 2008年 | 長年の願いであった「店」を名張市蔵持に開店。 「ゆうきげんきや」と名付ける。 受け手の人たちの手助けを受けながらの共同展開ができるようになる。 |
| 2012年 | NPO法人として再出発しました。 任意団体でなく法人として安定した運営をしていくことと、私たちは単なる出荷団体でなく受け手も作り手もともに生き方を模索する仲間であるという意識から、NPOの形を選びました。 【NPO伊賀有機農産が基本としたい3つのこと】 1.自然・すべての生き物とともに生きたい 2.くらしを自らの手に / 生きるスベを身近に持とう 3.自らやる / 私がやる やらされるのも、やらせるのもイヤ。誰がどこでいつ何をして くれたのかわからないなんてイヤだ。私が、あなたが、やる。 |
| 2019年現在 | 農家数・14軒。 発足時からの理想を胸に、より多くの仲間(作り手、受け手)の輪を広げるべく、日々奮闘しています。 栽培技術向上はもちろん、作り手の生活の安定、農地の拡大、新規研修生受け入れ、そして受け手との交流の充実など、みなの考えで伊賀有機の世界を広げていきます。 |

