伊賀有機農産は、こんなことを考えて活動しています。

伊賀有機農産に、決まった農法はありません。
決まった思想もありません。

ここにはただ、「このままで美しい大地と空を子どもたちに残していけるだろうか?」、と疑問に思った者たちがともに考え、支え合い、それぞれの方法で表現するために、寄り集まってきています。

農業というのは、ひとつの手段にすぎません。

自分の理解できないところで作られるモノ、決められるルール、捨てられるゴミ。
人はいつしか社会に振り回され、生かされ、殺され、そして無責任になっていきます。

生きることの原点・「食」から始め、自分が生きることを取り戻したい。
それが、伊賀有機農産の根っこにある考え方です。

伊賀有機農産は、仲間をもとめています。

一緒に畑に立ち、食と向き合う仲間を求めています。 考え方に共鳴し、行動する仲間を求めています。 野菜を味わい、野菜作りに賛同してくれる仲間を求めています。 遠い地で思いを同じくし、大地を耕す仲間を求めています。 そんな世界を覗いてみたいなと思ってる人を、求めています。 そして、みんなの仲間になりたいと思っています。 それぞれが思う形で、「美しい大地と空を子ども達に。」残したいあなたの仲間になりたいと願っています。

伊賀有機農産は、循環農法、露地栽培、無農薬無化学肥料農法に取り組んでいます。

身の回りにある関係の中だけで生きていた頃は、大地と空がそんなに汚れることはなかった。 僕たちは、身の回りにあるもので、「食」を求めたい。だから、自然の法にならい、落ち葉や糞尿からの土作りに学びます。 自分で作れないもの、遠方から取り寄せなければならないものは、極力使いません。 また、周りとの関係を断ち切って野菜を管理するのでなく、風や虫にさらされた露地を選びます。 それが、循環農法・露地栽培・無農薬無化学肥料を進める理由です。 それでも、より多くの仲間に野菜を食べてもらおうと思ったら、より多くのものを補わなければなりません。 残念ながら、車を使います。鍬の先にある鉄だって、自分では作れません。 子を育て、社会で生きていくために、お金も使います。 現実と目標の間で揺れ動きながら、それぞれができる精一杯で、野菜を作っています。

伊賀有機農産は、こんな集団です。

それぞれが独立農家です。独立して生きる個人を、支え合うためのグループです。 支え合いの一つの形として、みなで集めた農産物をまとめて出荷しています。 人と交わり、表現するため、さまざまなイベントを催しています。 みなで決めたことは、それぞれができる範囲で参加します。ルールはただ一つ、「他人の邪魔はしないこと」。 生産者だけの集団では狭すぎる!? NPO法人伊賀有機農産として生まれ変わり、すべての仲間と手を携えていきたいと思っています。

伊賀有機農産、これまでの歩み

前史

1980年 現代表の松井が、伊賀の地に就農。 NPO法人「使い捨て時代を考える会」を母体とした食材共同購入組織、安全農産供給センターの直営農場専従スタッフとしての就農であった。
1981年 自然農法の草分け的存在であった久門太郎兵衛氏が、大阪から三重に移住し、伊賀の地に「天地農場」を拓く。 伊賀市の青蓮寺開畑地は、戦後に農地開発された500haの畑灌完備の農地でありながら荒廃地が多く、これからの新規就農者が農業を始めるのに適地であると見定め、ここに研修道場を拓いた。 松井も、天地農場門下生として研修し、独立。のちの伊賀有機農産供給センターの礎となった。

草創期

1984年 3軒の農家で「伊賀有機農産供給センター」(任意団体)を設立。 「くらしの変革の内から安全な食べ物を」「子供たちと手作りの未来を」を旗印に、私達が効率や便利さを求める内で手放していった人との継がり、くらしの手工や仕事の仕方を取り戻そうと、そしてもっと身近に生きてゆく上で大切なものを持っていたいと願い、人が生きるに最も重要な「食べ物」を通してそれがより鮮明に見え、関係を創りだせるのではないかとの思いを込めて。 今でいう地産地消の先駆けとして、地元住民への戸配をはじめる。
1986年 チェルノブイリ原発事故を受け、原発反対運動に参加。 我々の土台である大地が汚染されていく危機感から。
1988年 三重県芦浜の漁師・坂口氏の干魚の取り扱いを始める。 野山と海は継がっている。多くの人との継がりの中での出会いであった。 このころから、ニワトリのさばき方教室、サカナのさばき方教室を実施。 同時に、野山と海の汚染を食い止めるため、芦浜原発反対闘争の支援を開始。
1989年 日本の食の大元、コメの供給開始。「農業教室」と名付ける。 手植え、手取り除草、手刈り、稲架干しにこだわり、苦労多かる稲作りを始める。
1991年 食用油(菜種・ゴマ)の生産者を招き、地元で勉強会を開く。

発展期

1992年 大阪東部生協への出荷を開始。のち、関西2府1県にひろがる。 新しい仲間を迎えるにあたり、2人の方の御尽力で新たな受け手との関係を築いた。 自らの手で戸配する体制から、より多くの家庭に野菜を届ける体制へと大きく変化。少量多品目から、中量中品目という今のスタイルを確立。食卓を潤せるだけのとりどりの旬の野菜を作る一方、より多くの方に野菜とメッセージを届けるため、機械化や効率の追求も必要となる。
1995年 三重コープ名張店前で週1回、青空市を開始。 夕方5時まで立ち続けるも、苦しい展開がつづき…。
1999年 地元で、味噌づくり教室をひらく。 くらしを身近なところに、手工を自らの手に、との思いから。以後、こうじ作りも始まり、手前みその奥深まることとなる。

そして次の世代へ・・・

2004年 現・若頭の木下夫妻が、いわん農場での研修を経て、結婚。独立農家に。 後継者を育てる体制が整い始める。
2008年 長年の願いであった「店」を名張市蔵持に開店。 「ゆうきげんきや」と名付ける。 受け手の人たちの手助けを受けながらの共同展開ができるようになる。
2010年現在 農家数・12軒。 発足時からの理想を胸に、より多くの仲間(作り手、受け手)の輪を広げるべく、日々奮闘しています。 栽培技術向上はもちろん、作り手の生活の安定、農地の拡大、新規研修生受け入れ、そして受け手との交流の充実など、みなの考えで伊賀有機の世界を広げていきます。

命の環

農業とは何でしょうか?

ただ、作物を作るだけということではないと思います。
完璧に整えられた溶液中に計算された肥料成分を満たし、エアコンで適度な風や温度を満たし、LEDなどで光環境も整えて、と限りなく条件を整えるなどの研究によっても、おいしく、安全な(一般的な、安全安心)作物ができると注目されて、取り組みが広がっています。しかし、こういう単なる物質の循環として農業をとらえて良いのでしょうか。農業は、命の循環であるとわたしたちは考えています。「畑」と聞いた時、手つかずの大地や原生林などの誰もが認める「自然」にくらべたら「自然」というイメージではない場所かもしれません。

畑は人が作物を栽培するという不自然で人工的な状態にもかかわらず、自然を抜きにはできない、続かない場所です。植物→土壌(無数の微生物、病原菌もふくまれます)→食べる人の命がつながっていると考えると、周辺には様々な草花、木々、たくさんの鳥たち、魚たち、昆虫や両生類などなど、ありとあらゆる命が複雑に関係しあい存在しています。
最近クローズアップされている、生物多様性なしでは成り立たないのです。

私たちは、鳥のさえずりを聞く、花の香を嗅ぐなど、日々、山や都会の街路樹などを含めて様々な場所で出会う四季折々の多様な生き物の姿を美しいと感じます。
畑では、「ヒヨドリ」のように野菜を食べたりする鳥もいます。「いのしし」や「鹿」なども作物に被害を加えます。例えば、「ヒヨドリ」がいなくなれば、農民は万歳なのでしょうか。「ヒヨドリ」や「いのしし」や「鹿」がいなくなってもいいのでしょうか。作物を食べる虫がいなくなったらいいのでしょうか。人間にとって不都合な要素を遮断すれば管理しやすいように見えます。

しかし、それらは、人間だけが生き延びればいい発想です。わたしたちが、命の循環の中にいるということに気づくなら、「虫」や「いのしし」などがまったくいなくなれば、自分たちに影響してくるとわかります。将来、人間の技術が相当進歩するとしても、命の循環の輪の一つである人間が「命の循環」そのものを構築できるとは思えません。命は、替えがきかない重要なものだと考えています。

「わたしたちの身体は毎日いただく食べ物が形を変えたもの」という言葉があります。
どんなに高層ビルが建っている都市であっても、「命」と「命」が繋がっています。例えば、「食べ物」つまりお米や野菜や果物などを通して毎日つながっています。わたしたちの暮らし方は、こどもたちの未来にどんな影響を与えるのだろうか、と、考え取り組むことは自然な思いではないでしょうか。そして、暮らしを通して考えるということは、身近で考えやすく、取り組みやすい方法ではないでしょうか。人間はそのように道を歩いてきたように思います。親が子の幸せを願い、自然の中で育まれながら、未来を願ってきたはずです。

「こどもたちと手作りの未来を・美しい大地と空をこどもたちに」

ずっと、伊賀有機農産は身近な食べ物を通して呼びかけ続けています。